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正之の異母兄である「家光」は弟の「徳川忠長」と違って、母「お督(お江与の方)」ではなく、乳母の「春日局」に育てられました。このことから両親(秀忠とお江与の方)は弟の忠長を可愛がっていたため、後継者争いが発生します。家光の将軍継承には危険信号が付いていました。しかし、幸いにも、初代将軍「家康」が存命中だったため、春日局の訴えで「長序の順」から家光が後継者であると宣言してもらうことが出来ました。
将軍就任に際し、「生まれながらの将軍である」と高々と宣言した家光でしたが、実際には将軍になるまでには幾多の危機があったのでした。
しかし弟の忠長にとっては、この恨みは深かったようで、おとなしく兄に従えばいいのに同格意識が抜けず対抗するという、彼自身の不行状もあり、改易処分を受け、最終的には自害させられました。
また、家光は「二世権現、二世将軍」を書いた紙を、守り袋の中に入れ、父の存在を欠落させていました。その一方、自分を将軍後継者に指名した祖父「家康」への崇拝の念は非常に強く、家康をまつる日光東照宮を、父「秀忠」が造営した物を改築し、自分の色に染め上げ、現在見られる壮大なものを完成させています。
彼もまた側近に恵まれた人物です。秀忠の頃からの重臣、「土井利勝」「酒井忠世」の他、家光が誕生すると側近として使えた「稲葉正勝」(春日局の子)、知恵伊豆と言われた「松平信綱」「堀田正」「阿部忠秋」「阿部重次」「三浦正次」「太田資宗」という「六人衆」をはじめ、家光の周りには切れ者が多く集まっています。
彼らの下で、幕藩体制の確立と、また農民&キリスト教徒による島原の乱以降、オランダ・中国・朝鮮・琉球を除き日本との貿易を禁止し、いわゆる鎖国体制を作りあげました。もっとも、鎖国と言っても日本にはオランダを通じて諸外国の物品・情報自体は入っていました。
ちなみに「太田資宗」は、江戸城を最初に造った「太田道灌(資長)」の子孫です。
ところで、家光を教育したのは「青山忠俊」です。ところが、とにかくこの人物は厳しい教育を行ったのでした。そのため家光に恨まれ、まず二万5000石の所領が没収された後、1625(寛永2)年には残りも全て取り上げられ、蟄居させられてしまいました。
その後、家光は「自分のために厳しくやってくれたのだ」と気が付き、許そうとするが、今度は青山忠俊が許さず、引きこもったまま1643(寛永20)年に66歳で死去しました。
家光は父以上に大名の改易を行い、先ほどの徳川忠長、それから熊本藩主「加藤忠広」(加藤清正の子)を筆頭に、外様29家、譜代・親藩20家の合計400万石にも及び、これらは家光の側近や、親藩などに与えられた。
さて、同じ母から生まれた弟であるにもかかわらず、徳川忠長に対しては事実上自害に追い込んだ家光ですが、もう一人の7歳下の弟で、秀忠の隠し子であった保科正之には絶大な信頼を寄せました。
そもそも、保科正之は18歳の時に秀忠と初めて対面したのですが、それでもこれは極秘のこと。秀忠は家光に正之のことを告げないまま死去し、家光が自分に弟がいたことを知ったのは、秀忠が死んだあとのことです。
どうやって知ったのかというと、
家光は、鷹狩りの途中に立ち寄った保科家の菩提をつとめるお寺の住職からその話を聞き、早速対面。よほど嬉しかったのか、正之を信州高遠3万石から、一気に山形20万石へ。さらに、正之32歳の時、会津若松23万石へランクアップさせました。また、正之は有能な人物で、さらに家光に忠勤一筋だったため、忠長の時とは対照的に不和は起こらなかったのです。
そして家光は死去する直前、まだ幼い息子「家綱」のことを正之に託し、手を握り、正之から「身命をなげうち、ご奉公致しますから安心してくだされ」という言葉を聞き、「安心した。もはや心残りはない」と答えると、そのまま昏睡状態に陥り、2時間後に死去したとのことです。正之はその後、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画。
また、正之の会津藩は後に、会津松平家となり、激動の幕末に大きな役割を果たすことになります。
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